所有物にステータス性を求めることは「価値観」か?
自動車やクレジットカード、時計やバッグなどのブランド品といった、
モノを所有することにステータスを求める人は、減ってきているらしいですが、
私の周囲を含め、いまだにある程度の人数がいるようです。
「個々人の価値観なので人それぞれあっていい」というのは建前上は理解していますが、
「本当にそれは価値観と呼べるものなのだろうか?」というのが、長年の疑問でした。
ステータス性を求める人はブランド商品を購入するとき、
「〇〇万円の時計を買う」のように表現します。
これが「デザインが好き」という理由で買っているなら、
自分の価値観による判断が下されているのですが、
「高いから」と価格で買っています。
この価格を決めているのはメーカや販売店であり、また「価格≠価値」なので、
自分の価値観による判断が入っていないことの証拠と言えます。
また、購入したブランド商品が効果を発揮するのは、他人に見られるときです。
「このブランドは高級品だ、これを所有する人は金持ちだろう」という判断をされることを期待しています。
だが、当然ながら、ブランド品を見るのは他人であって自分ではありません。
見るのは他人なのですから、当然ここでも自分の価値観による判断は入りません。
相手は相手自身の価値観でそのブランドを判断します。
以上のように、ステータス性のある商品を
「所有する→他人に見られる→他人が自分のことを評価する」という一連の流れで、
「自分の価値観による判断」が絡む場面が見つかりません。
まとめると、所有物にステータス性を求める人は、
「自分の価値観による判断をしないことが自分の価値観」という価値観を持っている、と言えます。
悪く言うと、「私は自分自身で価値を判断するだけの能力がありません」と言っているようなものですね。