サマータイムには反対です。中途半端な制度だから。
2020年の東京オリンピックで、暑い時間帯を避けるために2時間のサマータイム導入を検討、というニュースがありました。
すでにいろいろな方が反対意見を述べています。
- すでに導入している欧州ではサマータイム廃止の運動が起きている。
- 医学的に生活リズムが崩れることによる悪影響がある。
- 導入当時に期待していたほど省エネルギー効果がない。
- 日本の情報システムはサマータイムを考慮していないものが多い。
切り替えコストが高すぎし、そもそも2020年に作業が間に合わない。 - 東京で行うオリンピックのために、日本全体の時間帯を動かすのはナンセンス。
どれも非常に論理的で、私も同意します。
特に、社内SEとしては、情報システムの改修にかかるコストや人月を考えると、
到底実現は無理だろうと思っています。
さて、私はちょっと違う視点からの理由を考えたいと思います。
それは「サマータイムが、時刻の定義として中途半端な制度だ」という理由です。
人類と、時刻との関係性の歴史を考えると、サマータイムは中途半端なのです。
初期の人類と時刻の関係は「不定時法」
人類が文明作ったところでは、かならず農耕のために暦が発明されています。
おそらく最初に時刻を図るために作られた道具は、日時計です。
日時計が影を作るのは日中だけですから、
1日は日の出から始まり、(北半球では)南中を経て、日の入りで終わります。
現代と違い、「1秒」という固定された時間の長さはなく、
逆に、日の出から日の入りまでの時間が「1日」でした。
当然、季節によって1日の長さは変わるのですが、夏でも冬でも1日は1日で、
その「1日」のほうの長さが変わっていました。
現代の24時間制で例えると、
季節によらず「日の出=6時」「南中=12時」「日の入り=18時」が固定されている感じです。
日本でも、江戸時代までは、このような「不定時法」が使われていました。
→ 参考) 江戸の時刻制度“不定時法”
現在のように照明器具がたくさんあったわけではありませんので、
人間の活動も基本的に日の出から日の入りまで、となります。
なので、この「不定時法」は「人間の生活に時刻が合わせた制度」と言えます。
現在の時刻は基本的に「定時法」
時代が進み、科学技術が発達するとともに、
不定時法のように時間の単位が一定ではないと不便が生じるようになってきました。
例えば、大航海時代、航海中に自分の船の位置を推定するためには精度の高い時計が必要とされましたが、
これは不定時法では計算できません。
(緯度は夜間に星を観測することで得られたが、経度については自船の速度と、時間から推定する必要がありました)
また、照明器具が発達して、人類の活動時間が増え、あまり日の出と日没に左右されないようになってきました。
そこで、1日を24時間に等分割する、「定時法」が広まりました。
厳密に言うと、1日の長さも1年を通じて変化します(均時差)がありますので、
「平均的な1日」を24時間とするようにし、1時間を60分に、1分を60秒に当初は決めました。
その後、地球の自転の速度も微妙に変化(徐々に遅くなっている)ことがわかりましたので、
その基準を現在は原子時計から決めるように1秒という時間の単位が定義されています。
このように、現在の時間の定義は、人間の活動ではなく、
「物理法則が基準となっている制度」と言えます。
サマータイムは中途半端
さて、この人類の歴史の流れを考えたとき、サマータイムは極めて中途半端な制度と言えるのではないでしょうか。
サマータイムを施行しているところでも、1秒の定義はサマータイムを導入していないところと同じです。
なので、「物理法則が基準となっている時刻制度」を利用しています。
それにも関わらず、夏の間は日の出の時刻が早くなるから、それに合わせて時刻を早め、
人間の活動も時刻に合わせて早くする、というサマータイム制度は
「人間の生活・活動が基準として、時刻を決めている」と言えます。
この矛盾が、私が「サマータイムは中途半端な制度」と考える理由です。
まとめ
以上のように、私は現代の人類と時間の関係性から考えてサマータイムが中途半端な制度だから反対です。
中途半端な制度というのは、大体の場合効率が落ちますし、何より美しくありません。
反対に、賛成派の人は、「欧米ではやっているから」という理由だけで賛成していて、
事実や論理に基づかない意見が多いように感じます。
もしサマータイムが実施されるようなことがあれば、
「日本の社会はサイエンスに基づく判断ができない幼稚な社会だ」と私が失望することでしょう。